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いろんなことが、記憶にないし、ものの順番もばらばらで確信はないのですが、今思い出せる範囲でこの震災に関する体験をつづってみようと思います。





2011年3月11日の振り返り日記。

そのときは、いつも通り、フロアでお客さんを見回っていた。
テレビはついていたが、緊急地震速報を聞いた覚えはない。
14時46分。
最初の揺れは長年仙台に済んでいる身からすればそう大きくはなかった。
だが、揺れはじめて3秒目に、これはそこそこやばいと確信する。長く揺れ、途中から激しくなるパターンだ。すくなくとも震度5はいく、と思った。
誘導や補助の必要な人はいるかと見渡す。金曜日の午後としては珍しく、来客は少なかった。20人いたかいなかったかくらい。すぐさま転びそうなほどの年配者はいない。
正規職員から指示はあるかと一呼吸置く。
同僚と目が合った。不安と戸惑いが見て取れた。
激しい揺さぶりが来た。小さく悲鳴が上がるが大声を出せる人がいない。
記載台に捕まって身を低くしながら、腕を振り回して叫んだ。
「立っている人はしゃがんでください! 転ぶから! できれば記載台に頭入れて! そこ(出入り口付近)の棚の近くの人、危険だから中入って!」
2、3回同じことを叫んだ。声が届いた範囲の方は従ってくださる。
軽い音がして電気が消え、あちこちで息をのむのが聞こえる。東西の方向に大きく揺さぶられ続け、ところどころで天井パネルが剥がれ落ち音を立てる。
揺れている間中、揺れが収まったらどうするか考えていた。

揺れが収まり、怪我人がないか声をかけあいながら、まず隣の公園に避難するよう客を誘導する。
その後、同僚4人揃って控え室に飛び込み、コートと貴重品だけ持って自分たちも公園へ。その間、2度ほど余震。
非常電源が働き、うっすらと蛍光灯が光っている。あれが割れて落ちてこないか? 蛍光灯は粉々に割れて髪の毛などにかかると大変だという。気をつけながら建物を出る。


公園には、周囲のオフィスから続々と人が集まっていた。数千人規模。
信号は当然消えている。車は戸惑うようにのろのろと走っていた。
同じフロアの職員で2~3のグループを作って指示を待つ。寒い。何度も余震が来た。木の枝が揺れ、街灯が揺れ、自分が揺れる。
そのたびに手を取り合って、危険がないか見回した。涙目の者もいるが、私は恐怖を感じることはなかった。来るべき時が来ただけだ、とそのときは思っていたのだ。両親のことは多少心配だった。家が倒壊ということはないだろうが(地盤は可もなく不可もなくの地域だし、家は建ててまだ13年程度であるし)、家具の下敷きになったりはしていないだろうか。
ある程度落ち着いてきたので、15時13分に父、母、姉、義兄に無事である旨、メール送信する。
ツイッターにもメールから投稿しておいたのだが、こちらは送信に失敗していた。
教員である姉からは、わりあい早く生徒ともども無事と知らせるメールが届いた。
近くにぽつんと、受付途中の書類を持ったまま避難している人がいたので、同僚の若いの(23歳男子)が「今日はもう手続きできないと思うから、帰っていいですよ~。また今度来て下さい。月曜日はかなり混み合いますので……」と話しかけている。「月曜日に通常のように業務できているかわからないので、ラジオやテレビでどのようになっているか確認してくださいね」と口を挟んだ。若い子はのんきだ。

16時近く、上司からようやく指示があり、解散となった。正規職員は当然、災害配置となり残る。
月曜日は可能であれば出勤し、出勤できないときは可能であれば連絡を入れる、というアバウトな指示。
反対方向に帰る、市職員の夫を持つ同僚に、一人で大丈夫か訊ねた。現場系の職場では、泊まり込みの可能性が高い。彼女は青い顔に決意を滲ませ言った。
「家を片付けて、夫の帰りを待ちます」


うちに泊めることにした一人暮らしの同僚と、帰り道が同じ方向の人たちを引率して、北へ歩いた。私含め8名。うち5名はアルバイトの大学生。
ロッカーから掴みだしてきたホッカイロが20枚以上あったので全員に一枚ずつ配る。
帰宅途中で父から、母とともに無事とメールが入る。送信時間は15時29分であったので、届くまでに30分以上はかかったと思う。
歩きはじめてすぐ、激しく吹雪きだした。朝、天気予報を見て傘を持って出勤したにもかかわらず、バスに忘れてくるという愚を犯したばかりだったが、雨でないだけありがたい。膝掛けを頭からかぶって歩いた。すぐに全身真っ白になった。眼鏡に雪がついて視界が悪い。

同じように徒歩で帰宅する人で歩道はいっぱいだった。
何度か、こんな言葉を交わした。
「仙台って、こんなに人がいたんだねえ」
学生はやはり元気だ。最後尾を歩く30代の二人がすぐに離されてしまう。8人がはぐれないように気を遣う。
車は特段の混乱はなく、粛々と走っていた。それでも交通整理のないT字路などは、なかなか曲がれないようで、数台分くらいは誘導してやりたく思ったが、預かった学生たちをまずは無事帰さなければならないので諦める。旧国道4号の大きな通りだが、我々の歩いた一時間以上の間、クラクションを鳴らす車は一台もなかった。
私たち含め、人々は明るく会話しながら歩いていた。学生たちは歌まで歌った。私の3倍の距離を帰らなければならない人もいた。
明かりの消えたコンビニには、行列ができている。この状況でも徒歩帰宅者を助ける店舗に頭が下がる。明日の蓄えはあるか、と学生に尋ねたが、一様に「明るいうちに帰りたい」と返ってきた。まっすぐ帰ることにする。
途中で道が分かれる学生を一人で帰すのが心配でたまらなかった。別れ際、つい口やかましくこうなったらこうしろ、ああなったらこうしろと指示口調になる。揺れたらブロック塀とは距離をとれとか、知らない人の家でも構わずピンポンして助けを求めろ、この地域の住民なら大丈夫だから、とか。
「かのやさんお姉さんみたい」
と12歳年上の同僚が笑った。


それぞれと別れて、自宅に到着した時刻については記憶にない。17時半は確実に回っていた。まだ薄闇の時間帯。おそらく職場を出てから1時間半はかかったと思われる。それしきで帰れる距離の家で幸いだった。
自宅前の道路は水道管か消火栓が破損したのだろう、川のようになっていた。
広範囲に亀裂が入り、崖側に傾いている。
立て付けのおかしくなった玄関を開けると、両親が箒で家の中を片付けているところだった。
棚という棚からものが落ち、割れ散らかっていたのだろう。ほんの3時間でよくここまで片付けたものだ。
母がけたたましく、「スリッパをはきなさい!」と命じた。言われなくてもそうする。
2本の蝋燭の明かりの下、カセットコンロでお湯を沸かしカップ麺の夕食を摂る。
母はカップ麺が苦手な上、食欲がないようで半分でギブアップした。その分も食べる。
今の家に引っ越すまで使っていた石油ストーブは火がつかなかった。もう一つ、祖母が使っていたものがあったはずだが、被害の大きい2階に保管してあるため、暗いうちに出してくることは諦める。
懐中電灯の光で確認した自分の部屋は惨憺たる有様。主に本棚とか本棚とか本棚とか本棚とか本棚とか。あり得ない角度で壁にめりこみつつ止まっていた。ホッピングする勢いだったのだろう。
奇跡的に無事だった(倒れた本棚と机の上にちょうど隙間ができていた)パソコンを、とりあえず引き出しに仕舞い、テレビをベッドの上に移す。ベッドの上はほぼ無傷だった。
無事をアナウンスするためにmixiにログインし、義兄と姉がお互い連絡とれていないことを知る。携帯電話は通話もメールも混乱しっぱなしのようだと実感。というかソフトバンクが通じていなかった。我が家はDoCoMoのため、メールは遅いが繋がる状態。姉とメールで、義兄とmixiでコンタクトをとる。
ケータイの電池がどうにも心許ない。手回し充電器が防災グッズ箱に入っていたが、どれだけ回してもなかなか効果は実感できなかった。
詳しい状況はわからないながらも、近親者の無事(生存という意味で)はほぼ確認できた。
どうにか片付けた和室と、テーブルを寄せてスペースを作った居間に布団を敷いて、就寝。余震に備えて、コート以外は着たまま。
大地は一晩中揺れていた。明日のために眠らねばなるまい。だが何度も頭を浮かせ、懐中電灯を握った。
こんな状況のわりには眠ったな、と翌日は思ったが、実際には一時間おきに飛び起きていた。
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